日本人はなぜ邪悪なのか

 

 

1.パールハーバー

中国人の亜種である日本人は、知能の低さと類人猿のような性欲から、可住地面積に見合わない過剰生殖により、世界一の人口密度を誇る国になってしまった。
それだけが要因ではない。
人口過密の環境を作ることによって個人の空間を矮小化させ、人間を狭小な空間に拘束し、生来矮小であった身体と精神をさらに矮小化させるための本能的な欲求である。
日本列島の劣悪な住宅環境は、わずかな平地に、洪水で流されたゴミのような窮屈な家々が密集し、互いに日陰を作り、子どもたちから遊び場を奪っている。
日本の子供たちは、戦時中の軍国教育を温存した学校教育の抑圧によって、長時間拘束され、自立心の発育は阻害され、痩せ細っていく。
放課後は狭い部屋に身を寄せ、任天堂のテレビゲームに依存し、外で遊ぶ習慣を失い、近視を強め、体まで弱らせている。
小さな家のわずかな余白には陽が当たらず、雨が降れば3日は湿気が失せない。
もともと陰湿な日本人の性格が、湿度の高い気候にもかかわらず、湿度調整とは真逆の住環境を作り出すことで、さらに陰湿になり、湿度が蓄積されていく。
日本の住宅では、どの部屋も手術台の照明のような強烈でまばゆいばかりの白い蛍光灯で照らされている。
白い蛍光灯は、狭くて安っぽい部屋のみすぼらしさや、日本人の凸凹のない平坦な顔をごまかすが、効能はそれだけではない。
もともと細い日本人の目をさらに細くするために、強い蛍光灯の光を利用して、自分自身の先天的な身体的特徴を高めるために形成された文化なのである。
日本人は自宅の庭の木を平気で切り倒す。あるいは、木の枝を全部切り落として、一本の男根のメタファーに加工してしまう。
異常なサディズムを発揮して、街路樹の幹に布をロープで巻いて発育不良にしたり、街路樹の根元をコンクリートで埋めたりもする。
このような樹木に対する破壊行為に弁解の余地はない。醜い民族の異様な個性の普遍化と醜い生命観の反映である。
西洋文明に寄生して生き延びてきた、自然状態では生きていけない地下の人種にとって、自然は彼らの人工的な存在感と対立する恐怖と憎悪に満ちた「敵」なのである。


素手で便所掃除をする作業を美化する日本人の手段を目的化する労働観は、どれだけ自分を抑圧して苦労したか、どれだけ苦痛を得たか、というプロセスの評価に偏重する。
暗黒民族である日本人は、永遠に苦しみながら体を焼く地獄の実現を合理化し、拷問を至上の目的とする労働倫理を作り上げた。
それぞれの人種は、先天的な身体的特徴を強化する文化を創造する。その文化は基準を設定し、その基準に適合しない少数派を多数派に同化させようとする圧力を生み出す。
日本人は、自分の小さな体に適合する小さな文化を生み出し、元々持っている小さな体という性質をさらに小さくして、住宅、都市、行動規範に至るまで自分たちの水準を越える者を自動的に攻撃する構造が支配している。
人間の自己保存の本能は、自分の個性を客観的に評価することができない。善悪や美醜を客観的に評価することなく、盲目的に自己の個性を拡大増殖させることを要求する。
醜悪な存在にとって、醜悪さは個性であり、自己保存の本能は、その個性を肉体的にも精神的にも強化し増殖させようと働く。劣悪な存在は、より劣悪になろうとする。

かつて日本人はパールハーバーを奇襲し、アメリカに侵攻した太平洋戦争は、世界に類を見ない規模の民族自殺戦争だった。
パールハーバー攻撃は、日本人の犯罪者が死刑を覚悟で通り魔となった歴史的な凶悪犯罪である。日本は、強者であるアメリカを攻撃し、アメリカを利用して自滅する道を選んだのである。
「日本は強敵と戦って滅びた」という自殺を正当化するイデオロギーを捏造し、その過程で得られる満足感のために、全く勝ち目のない自殺戦争を起こし、自分たちの醜悪な個性を追求したのである。
日本人の真の姿、日本人の生命力の目標は、損壊した死体になることである。
日本人に西洋文明を与えても、西洋化することはなく、寄生生物が宿主を利用して増殖して、消費していくように自らの劣化した個性を拡大するだけである。
西洋文明の剽窃と模倣によって養われ肥大化した劣等民族の自滅的欲望は、西洋文明から得た材料で犯罪兵器を組み立てている。
善人はただ死ぬだけだが、悪人は誰かに殺されるのを待ち望み、相手を攻撃し、殺させ、相手の手を汚し、悪の本当の姿である「死体」になろうとする。
醜悪な人格の持ち主は、体を切り刻まれ、死体になることで、快楽の極限である苦痛を求める。

快楽と苦痛に違いはない。私たちは100%の苦痛ののうち50%の苦痛を快楽として認識する。快楽の追求は、苦痛の究極に至る。
日本は、圧倒的な強者であるアメリカの男性的な力によって身体を切断され、殺されるという至上の快楽/苦痛を求める娼婦である。
苦痛と死と醜さの完成形を求める人間が、この世で最大の苦痛を味わおうとするならば、自傷行為や自殺では目的を達成することはできない。
人間に最大の苦痛を与えるのは、他の人間である。
死を求める者が、強者にとって大切なものを陵辱して殺すことで、強者の徹底した怒りと復讐を可能にする力を引き出し、想像を絶する拷問で激痛を与えられ、徹底的に損壊した死体になることができる。
肉を引き裂く鉄の効果を最大限に発揮する者は、鉄でなければならない。


性行為は、私たちが先史時代の地球で極小の生物であったときの犯罪行為の再現である。
何世代にもわたって刺したり刺されたりすることで、突起を男性器として、刺す穴を女性器として完成させたのである。
もしあなたが鏡の前でナイフで何度もピストン運動をしながら自分を刺し続けて、表情や喘ぎ声を客観的に観察できるならば、性交時の女性の表情や喘ぎ声と何ら変わることはなく、得られる感覚も、程度の差こそあれ女性器が男性器から受ける刺激と変わることはない。
さらに、絶命の感覚である「絶頂感」は、女性のオーガズムと同じである。

女性のオーガズムは男性のオーガズムより10倍大きいと言われている。
子供や動物を殺す悪の犯罪者は、強姦、挿入、無垢と処女の排泄という男性的快感を得る。そして子供や動物を殺す悪の犯罪者は、子供や動物を殺すという男性的快感に満足せず、オーガズムの快感を高めようとし、男性のオーガズムの10倍の快感を持つ女性のオーガズムを目指す。
つまり、性欲と快楽を追求する男性は、「殺す」という男性的なオーガズムから、「殺される」という女性的なオーガズムの至高の快楽を得るために、殺人という男性的行為で女性に変身する。男性的な快楽は、女性的な快楽に変わる運命にある。
殺すことで得られる男性的快感は、性器以外の機能である武器や腕の使用によって得られる間接的な感覚であるため、得られるオーガズムは、直接的な性交よりもさらに低調なものとなる。


2.児童虐待・動物虐待について

残虐な犯罪を犯す者は、残虐な犯行に対して、さらに残虐な報復を報酬として求めるために行動する。性欲と快楽を追求する者は、犯すことによって犯されることを求める。
悪は、罪のない存在を殺すことで、他者から正義と怒りの男性的な力を誘発し、男性的な力による徹底的な裁き、拷問、処刑という極限の苦痛・快楽を得ようとする。
理性は残虐行為を行う者に2倍の苦痛を与えるという杜撰な計算能力しか持たない。
子供や動物を殺す邪悪な男性犯罪者は、女性的な快楽を得るために殺害し、忌まわしい犯罪の被害者は、犯罪者の快楽器官である女性器を開発するための栄養剤として利用される。
怒り、復讐、信仰、正義といった人間の最高エネルギーを動力源とする鉄の拷問器具が与える肉体的苦痛は、邪悪な者に想像を絶する苦痛を与えるのである。
邪悪はそれ自体では存在し得ない。死と暗黒は、正義を破壊装置として利用して、究極の自己保存を求める。
最大の苦痛を伴う損壊した死体となることが、邪悪の求める自己完成なのだ。

女性が男性よりも凶悪犯罪に消極的なのは、女性にとっては、「殺す」ことの男性的快楽によるコストの高い犯罪のプロセスを経ることなく、「殺される」ことを生まれながらにして女性器の快楽器官で日常的に再現できるからであり、女性のオーガズムよりも下級の男性的快楽の退屈な効能を自覚しているように思われる。
もし、女性の凶悪犯罪者が、息を吐くように無感情に無実の人々を殺したとしても、それは無感情や善悪の観念の欠如を示唆するものではない。
その女性は、女性的オーガズムに比べた男性的オーガズムの生ぬるさ、さらには、男性的な正義の力によって「裁かれる/殺される」という女性的快感の退屈さに辟易した絶望的な不良少女の刹那的な性の乱脈と欲求不満の表現であり、
肉体の超越よりも肉体の現状を追求するだけの観念的な発展を欠いた世俗と市民のニヒリズムなのである。

動物を殺害する邪悪な者は、共感や善悪の感覚を欠いているのではない。
邪悪な者は、動物がかわいくないから殺害するのではない。動物がかわいいから殺害すのだ。
それは自分の行為の悪を自覚し、自分の悪に善がどう反応するかを熟知しており、自分の悪行が報復されることを前提に、裁きを求めて邪悪な行為を行う。
球状の自己完結した善を自らの引力によって棒状に引き伸ばし実体化させ、男性的な正義に変身させることで、自らの暗い穴に誘惑し、裁きを受け殺されるのである。
正義に殺されることで、悪は二重の快楽を得る。悪は、善の延長線上にある正義に、自分を切り裂かせ、殺されることで至上の快楽を味わい、その真の姿である屍に成長することができる。
さらに正義を堕落させ、自らの暗黒の次元に引きずり込み、吸収し同化させ梅毒を蔓延させることができる。「娼婦と交わる者は、彼女と一つの体となる」のである。
娼婦である邪悪の原動力は、善を知性と意志の能動性を持つ絶対的現実として想定し、善に敵対し、積極的な攻撃を意図し、自分との一体化を欲し、善を悪の完成に奉仕させることにある。
快楽と苦痛の極限を志向する悪は、それ自体では存在し得ない。能動的で意志的な善の力を利用することで、悪は完成に向かうのである。
つまり、悪は神の存在を認識し、それを前提にしている。


最悪の誘惑がある。淫婦である邪悪は、求める者の男性的な力を高め、試し、最高の条件を与えることで絶頂に達しようとする。
もし、悪の娼婦が両親の前で子供を惨殺したり、惨殺しようとしたら、両親は相手の娼婦・悪を殺さずにはいられなくなる。
相手の家族を殺すことが決して断れない誘惑であることを知っている淫婦である邪悪は、股を開いて誘惑することによって、男性的な反応を引き出そうとしているのだ。
しかし邪悪に報復する男性的快楽は、善き父や夫のとっては日常的にリスクやコストをかけずに伴侶との夫婦生活を通じて同量の快楽を得られる、男にとって日常の性行為と同量の快楽であるから、正義という肥大した権力による快楽を求めてはいない。
邪悪は前提を必要とする受動的な存在だが、善は悪という前提がなくても可能であり、善は自己完結している。邪悪の世界は、正義と男に過剰なまでのファックを強いる。
オーガズムは女性の快楽であり、死のエネルギーであり、男性の存在は、すべて女性に至るプロセスに過ぎない。
女は地球の支配者であり、生命を再生産するが、この世に不変で実在する男は一人もいない。男は女の世界が作り出した幻影に過ぎない。
すべての男は女になる運命にあり、この世に本当の男がいない以上、男は唯一の男であるキリストを受け入れる時を待つ処女でなければならない。
罪深い人間は、誘惑の試練に遭わないようにと祈るしかない。唯一の父である神と、その御子であり王であるキリストのほかに、真の男はいない。

仮に世界に同性愛者しかいなかったとしする。あるゲイが他のゲイをレイプする犯罪が発生した。
「目には目を」の原則に従って、ゲイの被害者はゲイの加害者に同じようにレイプして報復するだろう。
この男ばかりの世界で、男と女をどう分類すればいいのだろうか。
結末によって定義するならば「女」を、被害者から復讐されるゲイの加害者と定義する。加害者に復讐するゲイの被害者を「男」と定義する。
しかし、"目には目を "の原則に従う限り、復讐者である "男 "はレイプによって復讐され、やがて "女 "になってしまう。男と女は逆転し続け、最後は女を頂点とする。

悪人を裁く者が現れないと、悪は自分の中に懺悔によって男性的な力を発動して、罪を償うという自滅的な行為をし始める。
邪悪な犯罪者が自分の罪を悔い改め、破滅的な善行を課して自分を裁くなら、神の力を悪用して自分の苦しみを得る凶悪な犯罪と大差ないのではないか?
悪は、重力による自滅を自然現象を神の力による裁きだとして、自殺のバリエーションの一つとして地球が不毛の星となり、自滅するまで、あらゆるものを殺し続けることになる。
しかし、邪悪な犯罪者に死刑で報復することは、闇の奴隷が欲する快楽を与えることになる。
現代人のレベルでは、非殺手段による反撃、外科手術のような高度な拷問、あるいは終身刑が適切である。

平均的な日本人男性の女性的な顔立ちと女性的な声は、まさに売春婦のような印象を与える。
彼らの未来は、太平洋戦争よりももっと凄惨な運命にあると思わざるを得ない。
日本人は、自分たちが手当たり次第に悪弊をまき散らして、いずれ正義の人間が怒って自分たちを滅ぼしてくれるという願望を持っているようだ。
悪だから滅びるのではなく、滅びるために積極的に悪に染まる自殺志願者の大群が列島にひしめていている。
「この世に正義などない」と言って悪弊を正当化する者は、男の前で裸体をさらして男を誘惑し、「この世に男などいない」と男の存在に対する懐疑を主張する娼婦と同じである。
奴らは、男性的な行為を示すことでしか反論できない状況に、男性を追い込もうとしている。
切腹、自決戦争、死の美学につながる観念を否定しなければならない。
西洋の文脈とは無関係に発生した極東の田舎国家の住民が、このような観念に耽溺することを好む現実を考えると、死の美学は、高等民族の生物学的健康や歴史に由来するものではなく、東アジアの先天的奴隷の病癖が陥る必然的堕落と生物的終焉として捉えるべきだ。
人間の混沌、虚無、死の探求は有機的な段階を経て転落している。堕落した西欧世界を待ち構えるものが「日本」なのである。

もし神が地上の生命を愛するのであれば、神は人間に不変の特権を与えることもできるはずである。
死へとファックする男性的エネルギーに満ちた生命が永遠に繰り返されるなら、その生命は存在として成立する。
しかし、その特権は民主的に万人に与えられるものではない。
神に愛され、永遠の存在という特権を与えられた人間とは、どんな人間なのか。少なくとも、東アジアン、動物虐待者、児童虐待のビッチでないことは確かである。
正義の心は、動物虐待者、児童虐待者、強姦者を無限に殺そうとしている。
そして、こいつらに対する最大の罰は、やはり無限に殺すことではないのか?